法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
「日はまだ暮れず」
(一)
平安朝の中頃、宝日という聖(ひじり)がおられました。「何をお勤めですか」と、人が聞きますと「三時の行いを致します」と言いました。重ねて「それはどういう行法ですか」と尋ねますと、答えて言いますには、「明け方には、
明けぬなり賀茂の河原に千鳥啼(な)く今日も空(むな)しく暮れんとすらん
日中には、
今日も又午(うま)の貝こそ吹きにけれ未(ひつじ)の歩み近づきぬらん
暮(くれ)には、
山里の夕暮の鐘(かね)の声ごとに今日も暮れぬと聞くぞ悲しき
この三首の歌をそれぞれ時間を間違えることなく詠(うた)って、毎日毎日、時の過ぎ行くことを心に占めております」と言ったということであります。
(二)
横川(よこかわ)の恵心僧都は「和歌はいたずらに飾った言葉で道理に合わないものである」と言われてお詠みになりませんでしたが、夜がほのぼのと明ける頃、はるばると湖を眺めなされた時、霞み渡っている浪の上に船が通っているのを見て、沙弥満誓(しゃみまんせい)の
世間(よのなか)を何に譬(たと)へむ朝ぼらけ榜(こ)ぎ去(い)にし船の跡なきごとし
という歌を思い出され、感深く思われてから「釈迦の説かれた教法と和歌とは、もともと一つであったのかなあ」と、それから後は、感動されたような時どきには、必ず和歌をお詠みになられたのであります。
(三)
ほろにがき悔いと追憶を背に負ひて老(おい)のゆく道日はまだ暮れず
“芳(ほう)を訪ねて尽日(じんじつ)花間に酔う”と詠まれている詩句のように遍満する香風を訪ねて径(こみち)をのぼり切りますとそこは空地で、かたわらに、水がしとしとと夢をぬらして流れております。どこか家の下水ででもあろうかと思われる水も、こうして新しい夢をひたして流れてゆくところは清水のおもむきがあります。なお捨石としては上等すぎる石のかなり大きいのが、ここかしこに据えられていて、三十坪の広さの空地が、何だか「廃園」の感じを呈しております。「春の廃園」それは詩として考えますと、ほのかな春の哀愁をともないます。哀愁を覚えながら的礫(てきれき)たる花を探っておりますと、廃園の奥の方から香風が匂って来ております。やっと白梅の匂っている姿を観取(かんしゅ)することが出来ました。梅は青高(せいこう)の隠士(いんし)、寂しいのが心に残ります。
昧爽(まいそう)の時空をこえて白梅の香(かおり)ほのかにひろがりてゆく
(四)
お大師さまは「性霊集」の中で「遮那は誰が号ぞ、もとこれ我が心王なり」と言っておられます。遮那とは毘盧遮那仏の略語です。大日如来をさします。真言宗の本尊さまです。「毘盧遮那仏とは誰の号即ち名であるか、われわれの心それ自体である」といい切られるのです。大日如来は真理それ自体であり、宇宙の本体であると同時に、私達の心身そのものが大日如来であるとお大師さまは言われるのです。私達は、現実的に迷いや悩みにおおわれていても、その奥には光輝く仏心、即ち仏の命が埋めこまれ、秘められているのです。その開発が即身成仏なのです。生まれながらにして具(そな)えている仏の命を開顕(かいけん)し、この人生において、仏の徳を発揮しなければなりません。仏の命は、そのものをそのものたらしめている知恵と慈悲の働きであり、遍照金剛の道であります。その道を自らの体験によって教えられたのがお大師さまなのです。
私達の心の中には、仏の命、仏性という尊い純粋な人間性があるのです。「自分の中のもう一人の自分」との出会が私達の人生行脚(あんぎゃ)なのです。行脚につかれたら、足を止めて、周圍に美しい花を見つけて下さい。仏様、お大師さまを念って合掌して下さい。そして忘れものを思い出して下さい。
身は食で、心は法(のり)で生かさるる。
南無大師遍照金剛 合 掌
この文章は2008年3月発行『転法輪』に掲載されます。
《過去掲載分》
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」