法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
「微笑の灰」
香は禅心よりして火を用いることなし
花は合掌に開けて春に因(よ)らず
『和漢朗詠集』中の菅原道真光の詩の一節ですが、大意は次のようになります。「香は火を用いてたくものである前に、何よりもまず禅定の心のうちに薫るのであり、花も春の到来によってはじめて開くのではありません。何よりもまず合掌した手に花は咲くものですよ」と。
“まかぬ種は生えぬ”という諺(ことわざ)がありますように、人生を豊かにしようと思ったら、或いは幸せになりたいと思ったら、人生の種まきを先にしなくてはいけません。人生の種をまかないで豊かな人生や幸せを得たいというのは道理に合わないことであります。種をまかずに芽という幸せ、実という幸せ、それを先に得ようとしているのではないでしょうか。幸せに豊かになるためには人生の種まきが必要であります。
老若男女を問わず、だれでもできる種まき、それは「挨拶(あいさつ)」であります。「挨拶」と言いますと、単なる儀礼ではないかと思われがちですが、決して儀礼として片づけてよいものではありません。「挨拶」は仏教語であります。禅家で、師僧が門下の僧と問答して、その悟道、知見の深浅を試みることなのであります。漢和辞典には、「挨」は開く、「拶」はせまる、引き出すと書いてあります。要するに、近づいて、「いのち」を「教え」を、「人間性」を引き出すのが挨拶です。他者のいのちを引き出すためには、先ず、自分の心に対する呼びかけが大切です。それが出来てはじめて、さりげない日常の挨拶言葉が他者の心にしみとおる、いのちの言葉となるのであります。
皆様方はタクシーの乗り降りに挨拶をされているでしょうか。乗ってやっているんだ、金を払うのだから当然だという気持ちではないでしょうか。それでは駄目です。乗る時には「金剛峯寺まで、お願いします」、降りるときには「ありがとうございました」。これが大切なのであります。この心からの言葉の潤滑油こそ人生の真実であります。
「挨拶」が心にしみとおるいのちの言葉としますと、いみじくも同じことをいいえた言葉があります。それは「微笑(ほほえみ)とは心の化粧がすんだあとの表情である」と言われていることであります。
お伽噺(ときばなし)の花咲爺さんは枯木に灰をまいて花を咲かせました。皆様方も、心の化粧のすんだ微笑の灰をまいて世の中を明るくして下さい。顔には微笑を浮かべることによって周囲の人々を明るくし、ひいてはそれが世の中を明るくしていくのであります。
お大師様の「われ衆生と倶(とも)にあり」との同行二人のご誓願を体して、笑顔の“ハイ”を今から、この場からおまき下さい。
南無大師遍照金剛 合 掌
この文章は高野山真言宗総本山・金剛峯寺発行のパンフレットに掲載されました。
《過去掲載分》
○ 2008年2月21日「日はまだ暮れず」
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」