仏 教 と 現 代
9/11から5年
2001年9月11日に何が起こったか、みなさんよくご存知だと思います。アメリカ同時多発テロです。
私は当時、大学4回生。家でウダウダしていたら、友人から一通のメールが入りました。「アメリカで大変なことが起きたらしい。テレビつけてみろ」。急いで電源を入れたテレビ画面の向こうで煙を吐いていたのは、その半年前に観光目的で上った、まさにその建物でした。
ワールドトレードセンター。同時多発テロの半年前の2001年2月、私は世界貿易センターとも言われるそのビルの最上階に上りました。展望室となっているその階にはカフェがあって、ピザ屋のおばちゃんと「ワオ、ビッグサイズ!」「イヤァ、アメリカンサイズ!」などと会話したのを、よく覚えています。
テロと、その報復攻撃の後、「これは宗教が引き起こしたのだ」という論調が主流になっていきました。イスラム教の過激派がテロを起こし、キリスト教、ユダヤ教が報復攻撃を行ったというのは、確かに表面的な構図ではあります。
しかし、私はその論調に違和感を感じたものです。宗教がテロや報復攻撃を引き起こした? はたしてそうでしょうか。「節度ある生活」を守るイスラム教は、殺人を否定しています。ニューヨークで会ったイスラム教徒の女性はこう言っていました。「ジハード(聖戦)という言葉は誤解されています。子育てや仕事など、自分の与えられた使命と格闘することこそ、本当のジハードなのです」。また、報復攻撃をした側のキリスト教は、こう教えています。「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい」
本当は、イスラム教やキリスト教がテロや戦争を起こしたのではないのではないか。豊かな国と貧しい国、国際社会で力を持つ国とそうでない国の、埋めがたい差がテロを生んだ背景ではないか。そして、テロの温床となっているような国では、国内の貧富の差も、すさまじいものがあるのではないか。そうして起こったテロへの恐怖と怒りが、アメリカを報復攻撃へと駆り立てたのではないか。そして、もとは政治的・経済的な対立だったテロと報復の応酬が、次第に宗教と宗教との対立へと人々を水路づけたのではないか。…私には、そう思えてなりません。
さらに、もっと強烈に違和感を感じたのは、日本の仏教者の言葉でした。いわく、「あちらは一神教だから危ない。私たちの仏教は多神教だから、多様な価値観が共存できるのです」。
これは勘違いもはなはだしい。キリスト教もユダヤ教もイスラム教も、確かに一神教です。では仏教は多神教ですか? 浄土真宗は阿弥陀如来、日蓮宗は釈迦如来を拝む、事実上の一神教です。真言宗だって、あらゆる仏は大日如来の変化した姿だというんですから、一神教と言えるかもしれません。もっと言えば、多民族が当たり前、意見が違って当たり前のヨーロッパと、「単一民族国家」という思考から抜けられず、異論を唱える人は排除される日本の、どちらが多様か、比べれば一目瞭然のはずです。
つまり、私が言いたいのは、宗教がテロや戦争を引き起こしたのでもなければ、一神教がとりわけ多様性を否定するわけでもない、ということです。
むしろ、9/11のテロを始めとする様々なテロや戦争は、本質的な力を失った宗教が、政治や経済に利用された、と思えるのです。
豊かな国と貧しい国の格差、国内の貧富の格差。その格差への憎悪が、生み出したテロ。テロへの恐怖と怒りが、生み出した報復攻撃。そして報復攻撃の名を借りた、石油利権の収奪。すべてが政治・経済の原理で動いています。宗教は、格差を埋めることも、報復をとめることもできませんでした。むしろ逆に政治・経済によって、憎悪や恐怖を増幅する装置として利用されたのです。
貧富の格差、テロ、報復…。9/11を起点とする世界情勢は、政治や経済に対する宗教の力を痛感せざるを得ません。宗教とは、かくも無力なものなのか、と。そして、その現実は、5年たった今でも、なんら変わっていないと思います。
今、私たちに何ができるか。途方に暮れるような問いですが、少なくとも宗教者としては、宗教が政治や経済に利用される危険があるというリスクを自覚することが必要です。そして願わくは、宗教が、憎悪や恐怖を増幅する装置としてではなく、寛容さを身に着けるための梵鐘として、この世界で警鐘を鳴らし続けられたら、と強く感じています。
2006年9月21日 坂田光永
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