法話集
高野山本山布教師 坂田 義章
「鳳仙花揺るる」
さよならを言ふ日のために生かされて愁ひはやまず苧環(おだまき)の花韻
(一)
忘れ物を思い出したように、にちりん二五号で柳ヶ浦に降り立ったのは午後二時前であった。このたびの柳ヶ浦(旧宇佐空)行については幾たびも車中で復唱していた。それは次のような便りであった。
「大変御無沙汰しておりますが、その後身体具合いかがですか。小生相変らずなんとか毎日を過ごしております。
さて、本年五月中旬に、宇佐空、百里空当時、一緒にいた十三期で、現在宇佐市に住んでいる同期生の設営で宇佐空跡地を見てまわりました。同封の写真はその折撮ったものです。参考になるかどうか判らないが御送りいたします。何か思い出していただければ幸いです。
平成五年六月二十日
厚木市荻野 難波 信正
坂田 兄へ
何か思い出していただければ、思い出していただければという祈りのような言葉が茶色味を帯びたススキの穂の中で動いていた。しかし一方では、浦島太郎が竜宮から故郷の岸辺に辿りついたような心境であった。
かっての隊門付近と覚しきところに石碑はあった。手紙と一緒に送付された一葉の写真どおり「神風特別攻撃隊予備士官戦死者氏名」と刻印された碑で、六十数名の隊員名並びに出身地の二段構成になっていた。私の名はなかった。勿論、こうして石碑を訪ねているからにはあり得るはずはない。私にあるのは、トカラの海域に不時着水した特攻隊員という汚名だけである。
西日の写し出す碑銘をなぞっていると、挙手の礼をして笑みを浮かべている友、友の顔が浮かんで来た。
辺りが陰ってくると、ひぐらしがひときわ響く美しい声で啼き出した。樹間高く響くその声の磁場に若くして他界していった女人(かのひと)へと私の思いは沈んでいった。
(二)
私は死ななかった。特攻隊員の一人として昭和二十年五月十一日、串良基地から飛び立ちながら不時着水し死を免れた。死の行列の一員から落伍したのである。生殺与奪をする「時」という流れの中でわずかな時間を借りて生きて来た。しかし、若くして女人(かのひと)が他界したのは私のかわりかも知れない。すると、神仏かけて護念してくれた女人(かのひと)を死に追いやったのは私だ。負い目の感情がまたまた湧動する。石碑に挙手の礼の別れを告げて去ろうとすると鳳仙花の青い実が淋しく揺れている。土に還る日を待って……。お大師様の偈文が思わず口をついて出た。
「行々として円寂に至り、去々として原初に入る。三界は客舎の如し。一心はこれ本居なり」(『般若心経秘鍵』)と。
挙手の礼して笑む女の幻よ碑の向こう鳳仙花揺るる
南無大師遍照金剛 合 掌
この文章は2008年6月発行『転法輪』に掲載されました。
《過去掲載分》
○ 2008年7月28日「微笑の灰」
○ 2008年2月21日「日はまだ暮れず」
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」