仏教と現代
伊太利亜国睡夢譚
昨年話題となった『ダ・ヴィンチ・コード』に漏れなく感化された私は、同じダン・ブラウンの著作『天使と悪魔』を手に取りました。私はすぐに「宗教と科学の共存」というテーマの虜(とりこ)となり、あれこれと考える日々に埋没しました。人類に幸福を与えてくれるのは、宗教か、それとも科学か。どちらが天使で、どちらが悪魔なのか。キリスト教を題材にした作品ではありますが、仏教に置き換えながら読み進む過程で、その当事者性にいてもたってもいられなくなった私は、ついに昨年九月末、イタリア旅行に出たのでした。
イタリアでは、キリスト教の影響力の強さをまざまざと見せ付けられました。フィレンツェのドゥオモ、ラファエロの絵画、そしてローマの教会建築。その全てがキリスト教に収斂していくわけで、その求心力の強さは、日本の仏教のそれとは比較になりませんでした。
そして、カトリックのお膝元とは思えないような、人々の「自由さ」にも、驚き、呆れ、またうらやましくもありました。私はパスポート紛失(盗難?)の憂き目に遭い、バッグを持ち逃げされかけましたが、国内に「発展途上国」を抱え込んだこの国の、それが生活の技法なのでしょう。
かたや教会や神父を日常的に眼にする「自由な国」イタリアと、かたや坊主が私服でこそこそと買い物をする「安全な国」日本。その違いにむしろ親近感を覚えるのは、どちらの国の人々も宗教の「建て前」を大切にしつつ、ともに生活者としての「本音」を優先しているからでしょう。宗教とはその程度の存在だということです。場合によっては宗教が人の命を救うこともありますが、現代社会を主導する科学に取って代わる力は持っていないし、持たないほうがいいのかもしれません。
現代社会と歩調を合わせつつも、少しテンポのズレた存在であること。たまに社会に軌道修正のチャンスを与えること。そのことが宗教の役目なのかなと感じました。
2007年1月1日 坂田光永
この文章は、光明院発行『遍照』(2007年1月)に掲載されました。
《バックナンバー》
○ 2006年11月21日「仏教的にありえない?」
○ 2006年10月23日「天使と悪魔 〜宗教と科学をめぐる旅〜」
○ 2006年9月21日「9/11から5年」
○ 2006年8月23日「松長有慶・新座主の紹介」
○ 2006年7月21日「靖国神社と仏教の死生観」
○ 2006年6月21日「捨身ヶ嶽で真魚を見た」
○ 2006年5月21日「キリスト教と仏教と「ダ・ヴィンチ・コード」」
○ 2006年4月21日「最澄と空海」
○ 2005年9月23日「お彼岸といえば…」
○ 2005年7月21日「お盆といえば…」
○ 2005年4月21日「ねがはくは花の下にて春死なん…」
○ 2005年3月21日「ライブドアとフジテレビと仏教思想」
○ 2005年1月21日「…車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」
○ 2004年8月21日「…私は、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている」
○ 2004年7月21日「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」
○ 2004年6月23日「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」
○ 2004年5月21日「世界に一つだけの花一人一人違う種を持つ…」(SMAP『世界に一つだけの花』)
○ 2004年4月21日「抱いたはずが突き飛ばして…」(ミスターチルドレン『掌』)
○ 2004年3月23日「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」
○ 2004年2月21日「…犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
○ 2004年1月21日「現代の世に「釈風」を吹かせたい ―心の相談員養成講習会を受講して―」
○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
○ 2003年10月21日「ありがたや … (同行二人御詠歌)」
○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」