法話集

高野山本山布教師 坂田 義章

「禽獣卉木 皆是法音」


狭い庭を白く分厚く染めてゐる雪積もれるやうなさるすべりの花

  (一)

 今年(平成二十一年)は戦後六十四年目のお盆でした。

 お盆を迎えるたびに還らぬ人となった同期生のことを改めて思い出します。私も宇佐海軍航空隊八幡護皇隊の一員として串良基地(艦攻)に進出していました。

 私が特攻出撃の命令を受けたのは昭和二十年五月十日の朝でした。

 「いのちは自分のものではない。光明院檀徒・藤井和子さんが吾妻山で撮影された「ホソバノヤマハハコ」。希少植物なのだそうです自分のものという執(
)らわれを離れよ」とのお大師さまのおさとしに安心を得て、八十番(八百キログラム)を爆装して出撃したのは五月十一日の朝でした。しかし、エンジン不調のためにトカラ海域に不時着水し、今日まで生を得ております。


  (二)

 突入した同期生(十三期)を追憶し、串良基地から母親に宛てた私の遺書を取出してみました。六十四年前ですから紙が色褪(
)せています。封筒も黒ずんで、歳月の壁を感じないわけにはいきません。

 私の遺書は「今日も快晴」で始まっています。

 「B29編隊十機来襲、全く手に負えません。静かに流れて行く悠々たる自然の中に人間の生命は没し、また生まれて参ります。生の喜びも束の間でしたね。明日愈々(
いよいよ)特攻で出撃します。永らえてもいつか散る運命ですから笑ってみていて下さい。今亦、六十九機の来襲あり。敵さんもなかなか強者たる感をいだきました。

 母上の写真、美しいのを航空時計に秘めて、突っ込む時は堅く抱いてゆきます。

 父上にも逢って話し、母上にも逢って話し、思い残す事とてありません。惜しむらくは両親の下にあって孝養をつくし得なかった事を残念に思っている次第です。

 思い出をたどればつきません。別離を思うと瞼(
まぶた)がにじんであつくなり、胸中湧出の思いを書き得ません。

 さようなら。 幸福を祈ります。

  昭和二十年五月十日、出撃前夜
                       義章

母上様 “お母さん”」

 特攻隊員であり、しかも沖縄に八十番(八百キログラム)を爆装して出撃しながら吐喝喇(
トカラ)海域に不時着水し、今日まで生を得ている私にとっては、重い日々が走馬灯のように浮かんできます。


  (三)

 じりじりと焼けつくような真夏の太陽の下、青々としげった森に

  ミーン、ミン、ミン、ミン、ミン、
  ミーン、ミン、ミン、ミン、ミン、

と全身全霊をこめ、声をかぎりに鳴くセミの一団、生命の賛歌を奏でるセミの楽団に勝る夏の楽隊は他にないでしょう。

 毎年、夏が来ると、生命の交響楽をかなでてくれるセミの声を、これから先、我々人間はいつまで聞くことでしょう。

 蝉の声も油蝉から、ひぐらし、つくつく法師と、鳴き声のうつり変わりとともに、灼熱の夏もやがて朝夕の風は、しのびよる秋を感じさせ、あちこちの草むらに虫が澄んだ声を聞かせてくれることでしょう。

 お大師さまは説かれています。

 「禽獣卉木 皆是法音」(きんじゅうきもく みなこレほうおんナリ)

 わかりやすく申しますと

 「空を飛ぶ鳥、地を行く獣、
 花咲き実なる草も木も、
 皆仏さまの説法の姿である」と。

南無大師遍照金剛  合 掌


この文章は2009年8月発行『転法輪』に掲載されました。



《過去掲載分》
○ 2009年6月21日「仏道遥かに非ず」
○ 2009年1月1日「何かが忘れられている」
○ 2008年10月28日「鳳仙花燃ゆ」
○ 2008年9月21日「鳳仙花揺るる」
○ 2008年7月28日「微笑の灰」
○ 2008年2月21日「日はまだ暮れず」
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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