法話集

足摺岬


時計の針と同じ向きの動きして黄の十字架菜の花の位置

 昭和五十八年の春、父の供養のために四国路に初めて出ました。転法輪寺一行に同行させていただいたのであります。

 菜の花の咲く畦道を歩いて行きます。時計の針があともどりをしているのではないかと思えるほど若やいで来ます。

 三日目の行程で足摺の椿トンネルをくぐって岬の巖頭に立ちますと、弘誓(
ぐぜい)の海が漫々と陽光にきらめいています。

補陀落(
ふだらく)やここはみさきの船のさをとるもすつるも法(のり)のさた山

 金剛福寺三十八番の札所の詠歌をくちずさみます。「問はずがたり」の文章が浮かんで来ました。

「小法師は誘われて出て行く。坊主は不審に思ってひそかに後をつけていくと、岬についた。小舟に掉さして、南をさして漕いで行く。坊主は泣きながら『私を見捨てていずこへ行くぞ』と叫ぶ。小法師は『補陀落浄土へ行くのです』と答える。見ると、二人の菩薩となって船のともと、へ先の所に立っている。僧は情なく悲しがって、泣き泣き足摺りをしたことから、ここを足摺岬というようになった」と。

 この文章が眼前の足摺りの海に展がります。鎌倉時代のことではありません。歴史は繰り返すと言われます。その通りです。私は特攻隊員として出撃しながら補陀落に行き得ないで挫折したのです。汚名を負っているのです。足摺りをして来た人間です。

 海上に向かって「オーイ」と声をはりあげます。と、怒涛の彼方から「船の棹とるもすつるも法(
のり)のさた山」と聞こえてきます。観世音利生(りしょう)の霊性か、六塵説法のお大師さまか、はたまた遷化(せんげ)した父の声か。豁然(かつぜん)として挫折の心がほぐれて来ました。行くも帰るも留まるも大いなるいのちのみ仏と二人連れなのです。

 沖縄特攻出撃での不時着水、同期生との盟約を果たし得ず挫折し、今日まで生存を続けているのは、これはお大師さまの加護だったのです。阿字の子として生きよというお大師さまの大慈、大悲の思召しによって生かされて来たのです。あるがままに享ければよいのです。ここ足摺岬の椿もいのちの旅を旅しています。誰も彼もいつかはさよなら≠ニ言う日が訪れて来ます。そのために、いま生かされていることを法縁としてお大師さまの報恩に生きる、それが父への供養になるに違いないと思いつつ濤(
なみ)の騒ぎを枕として瞑想に耽りました。

 出発を知らせるマイク放送が流れて来た時、後髪を引かれる思いで足摺りの巖頭を去りました。

 父親の死を代償として、その供養回向の四国巡拝の旅、ここ足摺岬での一日が、一時が百八十度のコンバート、挫折回転の軸となったのです。

 日が暮れてからの道でありますが、三十数年の挫折を下敷きにして一歩の行にいそしんでおります。

踏み行きし大師(ちち)の跫(あし)音(おと)包みつつ潮の遠鳴る春の足摺

高野山本山布教師 坂田義章
南無大師遍照金剛 合掌


この歌は、2012年1月発行『遍照』に掲載されました。



《過去掲載分》

○ 2011年1月1日「春遠からじ」
○ 2010年4月21日「春の心」
○ 2010年1月21日「到りうべしや」
○ 2010年1月1日「春遠からじ」
○ 2009年9月23日「禽獣卉木 皆是法音」
○ 2009年6月21日「仏道遥かに非ず」
○ 2009年1月1日「何かが忘れられている」
○ 2008年10月28日「鳳仙花燃ゆ」
○ 2008年9月21日「鳳仙花揺るる」
○ 2008年7月28日「微笑の灰」
○ 2008年2月21日「日はまだ暮れず」
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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