法話集

祈親上人

 本年(2016年)は、長和5年(1016年)祈親上人の高野山登山よりちょうど一千年に当たります。そこで『坂田徹全法話全集・完結編』より、「祈親上人」の稿を掲載します。


 祈親上人(きしんしょうにん、1618−1707)は本名を定誉(じょうよ)といい、七歳で厳父を失い、十三歳で慈母を失ったので、天禄元年に、南都興福寺に入って出家し、空晴に指示した。幼にして聡敏の誉が高く、よく法相の宗義を学び、子島の真興に従って、真言密教を受けた。また非常に孝順な性質で、常住不断に法華経を読誦して昼夜を分たず、只管に亡き両親の仏果菩提を祈念していたので、人皆称して、祈親上人、または持経上人と呼んだ。

 齢六十に達して、父母の亡後の生処を知らんと欲して、大和国長谷寺に参詣して、大悲観世音菩薩の御宝前に祈念を捧ぐること一七日、その霊告をうけて高野山に登った。時に長和五年三月である。

 その当時の高野山は、正暦五年七月の雷火のため、壇上の諸伽藍は、御影堂を残すの外悉く焼失したので、雅真検校は、鋭意再興に力めたが、業半ばにして入寂し、加えて造営奉行の紀伊守景理の横暴と私慾によって、寺領は没収され、一山は日増しに廃頽し、雲煙の外に目を遮る堂舎なく、壇上の焼跡には雑草生い茂り、常住順役の僧は住むに屋なく、観念修禅の道侶も居るに所なく、三宝鳥の声の外には人声を耳にすることもなく、ただ奥の院御廟のみ、僅かに形を存し、それも蘚苔(
せんたい)深く参詣の道を閉ざしているという惨状であった。この荒頽の真只中に登山してきた祈親は、慨然として涙にくれ、奥の院御廟前に跪(ひざまず)いて恭々しく拝礼を終え、青苔を採り集めて、燧(ひうち)を把って誓願して

「今この石火を、五十六億七千万歳、慈尊三会の暁まで伝えんと欲す、誓願斜ならずば、我れ鑚(
)るところの一燧のこの青苔に、火を点ぜしめ給え、南無帰命頂礼遍照金剛」

と啓白し、カチカチと火を鑚るに、不思議や燧火忽ち迸(
はし)って青苔に燃え移り、赤々と焔がのぼった。祈親上人は、これ実に高野山再興成就の端相なりと感嘆して、随喜の涙にくれた。爾来九百五十年、今に奥の院灯籠堂内に、昼夜不滅の法灯として護持され、高野山のシンボルとして、これを「持経灯」と名付け、後に白河上皇の献じた「白河灯」とともに、不滅の灯として今に伝わっている。持経灯は、俗に「貧女の一灯」とも呼ばれている、それは和泉国の貧女お照が、髪の毛を売って一灯を献じたものを混同しているようであるが、それは兎に角、祈親は高野山再興の大業を遂ぐるため、住山不退の志を励まし、伽藍の復旧に精進したので、門徒も次第に増加し、興隆の業も漸くその緒につき、法灯も再び輝きそめたが、永承二年、九十の頽齢を迎えたので、後事を神足の明算に委附し、同年二月十四日夜、釈迦文院の禅室で入寂したのである。「高野の中興上人」と呼ばれ、村上天皇は「常照上人」の勅謚を宣下し、法印大和尚位に任ぜられた。

光明院 第十六世住職 坂田 徹全
南無大師遍照金剛 合掌




《過去掲載分》

○ 2015年2月21日「生かされて、春夏秋冬」
○ 2013年9月21日「阿闍梨 義章 追悼の文」
○ 2012年1月1日「足摺岬」
○ 2011年1月1日「春遠からじ」
○ 2010年4月21日「春の心」
○ 2010年1月21日「到りうべしや」
○ 2010年1月1日「春遠からじ」
○ 2009年9月23日「禽獣卉木 皆是法音」
○ 2009年6月21日「仏道遥かに非ず」
○ 2009年1月1日「何かが忘れられている」
○ 2008年10月28日「鳳仙花燃ゆ」
○ 2008年9月21日「鳳仙花揺るる」
○ 2008年7月28日「微笑の灰」
○ 2008年2月21日「日はまだ暮れず」
○ 2008年1月2日「見られている」
○ 2007年10月21日「桜池院前官追悼詠草」
○ 2007年9月21日「おかげさまで」
○ 2007年7月21日「到りうべしや」
○ 2007年3月21日「おかげさま」
○ 2007年1月1日「私達の忘れ物」
○ 2006年8月23日「くちなしの花」
○ 2006年7月21日「露の法音」
○ 2006年4月21日「負い目」
○ 2006年1月1日「別事無し」
○ 2005年8月21日「秋風蕭蕭(しょうしょう)」
○ 2005年7月21日「ハスの花」
○ 2005年6月21日「賽の河原の地蔵和讃」
○ 2005年1月1日「一期一会」
○ 2004年9月21日「仏法遙かにあらず」
○ 2004年3月21日「リンゴの気持ち」
○ 2004年2月21日「ふうせんかづら」
○ 2004年1月21日「心の師」
○ 2003年10月21日「百日紅の花」
○ 2003年8月21日「露団団」




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