仏 教 と現 代

祈りと行動と

2008年5月11日 チベット平和の祈り
 私の好きなダライ・ラマ法王の言葉に「宗教者は祈ると同時に行動しなければならない」というものがある。

 日々祈ることは大切だ。しかし、私個人は、行動することの意味も同じぐらいあると思っている。

 私たち真言宗の若手僧侶は、4月末に「チベット平和の祈り実行委員会」を結成し、5月10日(土)、11日(日)に「チベット平和の祈り」を執り行った(詳細はこちらをご覧ください)。私は事務局の一端を担わせていただいた。多くのお参りと浄財にお礼を申し上げるとともに、個人的には、「祈り」を「行動」に移す機会をいただいたことに対しても感謝したいと思っている。

 参加した先輩僧侶は、今回の「行動」によって周囲から様々な問いを受けたことを語ってくださった。「なぜミャンマーのサイクロン災害に対しては何もしないのか?」「チベットの独立を応援するのか?」「日本人とチベットはどういう関係があるのか?」 …こうした問いに正解があるわけではないだろう。でも、こうした問いを引き受けざるを得ない立場に身を置くこと、それが「行動する」ということの本質的な意味じゃないだろうか。それは「責任を持つ」ということでもある。

 どんな行動をするかは「ご縁」次第だ。なぜ私はチベットを選んだのかは、もはや「ご縁」というしかない。しかし、その先に見えてくるものがある。「すべてに対して行動することはできない」ということ。「行動には限界がある」ということ。すべてに対して行動することができない自分の不甲斐なさを痛感すること。だから祈る。思わず祈る。「乃至法界平等利益」と祈る。すべてに対して祈ることはできる。行動するからこそ気づく、祈りのすごさ、重さがある。

 行動したあとの祈りには、また違った重みがある、と私は思う。だから宗教者は、祈ると同時に行動しなければならないと思う。

2008年5月21日 坂田光永


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