仏 教 と現 代

再びオウム事件と仏教について

藤井和子さん撮影の妙見神社の桜 地下鉄サリン事件から15年がたちました。私たちの社会はいまだにあの事件をきちんと総括できていない感じがあります。特に仏教界は、最近の阿修羅ブーム、仏教ブームに浮かれて、オウム事件の頃の宗教批判をクレンジングできた気になっています。

 私が地下鉄サリン事件から十回忌にあわせて書いた文章を読みなおしてみると、我ながら過激なことを書いているなぁと恐縮します。

 2004年3月23日「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」

 ここでは、「オウム=非科学的」というなら「宗教全般=非科学的」になってしまう、そういう批判に私たちはどう向き合うかを、当時の私なりに考えて書いてみたものです。今の私も基本的にはこの姿勢をベースにしています。しかし、その後の私がそれをどれだけ実践し、伝えられてきたか、というと自信がありません。大言壮語が過ぎたかもしれません。

 ただ、状況はあまり変わっていない気もします。周りを見渡すと、仏教ブームの一方で、「葬儀無用論」のような僧侶には厳しい論説が飛び交っています。葬儀無用論は、つまるところ布施を受け取る僧侶に対する不信です。文化人類学者の上田紀行さんが言うように、世の中は「仏教は好き、でも僧侶は嫌い」なのでしょう。

 僧侶が嫌われる理由は、科学的でないからだ、と私は思います。なんだか的外れと思われるかもしれませんが、私はそう思うのです。

 仏教は科学的でなければいけません。科学というのは、1つには「合理的」であること、1つには「経験的」であることです。

 合理的とは、演繹法にかなっている、つまり論理的に成り立っているということです。仏教の教えは「縁起」「正見」など極めて論理的です。真言宗の開祖・弘法大師空海の著作はいずれも非常に論理的です。もちろん、中には論理の飛躍がないことはないのですが、論理に不誠実な態度は仏教的ではないということになります。一般の人から「なぜそう言えるのか」と問われた僧侶は、「わしの言う通りすれば間違いない」とか言わずに、論理的に答えることが求められます。

 経験的とは、帰納法にかなっている、つまり誰でも条件さえ整えれば追体験できるということです。理科の実験でいう「追試」ができるということです。これは「条件さえ整えれば」ということがミソで、実際には簡単ではありません。しかし、明らかに「そりゃアンタしか見えないでしょ」ということは、科学的ではないということです。釈尊はあの世のことを尋ねられて「無記」(ノーコメント)を貫いたといいます。経験できないことは有るとか無いとか断言する僧侶は、非常に非科学的です。また、仏教の教えを実践すれば本当に釈尊に近づけるのか、自分自身で「追試」していない僧侶は、これまた非科学的だということになります。

 ユングや宇宙論をことさら語る必要はないと思いますが、合理的で経験的な態度を養っておくことは、現代仏教を鍛え、一般の人に理解してもらうときの力になると思います。どんなに崇高な教えも、それが役に立って初めて意味があるのだとすれば、多くの人に仏教を役立ててもらいたいと私は思うのです。

 僧侶は陸上自衛隊員と同じぐらいの、約18万人いるそうです。そのうち高野山真言宗の僧侶はおよそ6400人。いずれ近いうちに、「そんなに大勢いらないのではないか」という時代が来るでしょう。科学的態度を鍛えておかないと、僧侶嫌いはますます深刻になりかねません。転職にも不利でしょうしね(笑)

2010年3月21日 坂田光永


《バックナンバー》

○ 2010年2月21日「立松和平さんの祈り」
○ 2010年1月1日「排他的、独善的な仏教にならないために」
○ 2009年12月21日「『JIN』のようにはいかないもので」
○ 2009年11月21日「排他的?独善的!」
○ 2009年10月21日「アフガンに緑の大地を」
○ 2009年9月23日「笑いとため息」
○ 2009年7月21日「臓器移植と『いのち』の定義 続編」
○ 2009年6月21日「臓器移植と『いのち』の定義」
○ 2009年5月21日「『地救』のために何ができるか」
○ 2009年4月21日「アイアム・ブッディズム・プリースト」
○ 2009年3月21日「おくりびとと『死のケガレ』」
○ 2009年1月21日「『伝道師』としてのオバマ」
○ 2009年1月1日「空と海をつなぐ」
○ 2008年10月28日「会津をめぐる」
○ 2008年9月21日「神秘主義」
○ 2008年7月21日「グリーフレス中学生」
○ 2008年5月21日「祈りと行動と」
○ 2008年4月21日「聖火の“燃料”」
○ 2008年2月28日「妖精に出会う」
○ 2008年1月21日「千の風になるとして」
○ 2007年10月21日「阿字の子が阿字の古里…」
○ 2007年8月21日「目覚めよ密教!」
○ 2007年6月21日「昔のお寺がそのままに」
○ 2007年4月21日「空海の夢」
○ 2007年3月21日「無量光明」
○ 2007年2月21日「よみがえる神話」
○ 2007年1月1日「伊太利亜国睡夢譚」
○ 2006年11月21日「仏教的にありえない?」
○ 2006年10月23日「天使と悪魔 〜宗教と科学をめぐる旅〜」
○ 2006年9月21日「9/11から5年」
○ 2006年8月23日「松長有慶・新座主の紹介」
○ 2006年7月21日「靖国神社と仏教の死生観」
○ 2006年6月21日「捨身ヶ嶽で真魚を見た」
○ 2006年5月21日「キリスト教と仏教と「ダ・ヴィンチ・コード」」
○ 2006年4月21日「最澄と空海」
○ 2005年9月23日「お彼岸といえば…」
○ 2005年7月21日「お盆といえば…」
○ 2005年4月21日「ねがはくは花の下にて春死なん…」
○ 2005年3月21日「ライブドアとフジテレビと仏教思想」
○ 2005年1月21日「…車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」
○ 2004年8月21日「…私は、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている」
○ 2004年7月21日「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」
○ 2004年6月23日「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」
○ 2004年5月21日「世界に一つだけの花一人一人違う種を持つ…」(SMAP『世界に一つだけの花』)
○ 2004年4月21日「抱いたはずが突き飛ばして…」(ミスターチルドレン『掌』)
○ 2004年3月23日「縁起を見る者は、法を見る。法を見る者は、縁起を見る」
○ 2004年2月21日「…犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
○ 2004年1月21日「現代の世に「釈風」を吹かせたい ―心の相談員養成講習会を受講して―」
○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
○ 2003年10月21日「ありがたや … (同行二人御詠歌)」
○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
○ 2003年8月21日「それ仏法 遙かにあらず … 」



高野山真言宗 遍照山 光明院ホームページへ