仏 教 と現 代

この不確実で不完全な世界


 私といつも仏教の話で盛り上がるカフェのマスターが、「これを読んで、光永君ならどんな感想を持つか聞かせて」と言われたので、さっそく読んでみました。苫米地英人『なぜ、脳は神を創ったのか』(フォレスト出版)。英語脳や自己啓発関係でベストセラーを連発するカーネギーメロン大学博士の書く宗教論です。

 苫米地さんは、「21世紀に宗教は不要!」という揺るぎない結論のもと、信仰は不安から生まれており、不安をごまかす幻想として脳は「神」を創りだしたと説きます。宗教戦争やテロ、カルトなどの問題も取り上げられています。宗教に騙されないために、宗教を学ぶ必要があるというのが、苫米地さんが本書を著した動機のようです。

 「21世紀に宗教は不要」とする苫米地さんの論の核心とは、「全知全能の神」が存在しないことを、ハイゼンベルクの「不確実性原理」、ゲーデルの「不完全性定理」によって証明できる!という部分です。そして「神は死んだ!」と言い放つのです。なるほど…。

 …なのですが、理系に疎い私には正直よく分かりませんでした。粒子の運動量と位置を同時に正確に測ることはできないという「不確実性原理」、数学は自らの無矛盾性を証明できないという「不完全性定理」によれば、確かにこの世の物理現象を完全に「観測」することも、完璧な原理の存在を数学的に「証明」することもできない、ということにはなりますが…。どうしてそれで神がいないことを証明したことになるのか、ちんぷんかんぷんで…。だって、「それも含めて神でしょ?」って言われたら終わりじゃないんでしょうか? なんだか神の定義を矮小化して、そこだけ潰された感じです。

 一方、著者は釈迦の思想を非常に高く評価します。釈迦の思想は不確実性原理、不完全性定理と同じだというふうに。確かにそれはそうだと私も思います。そして、「釈迦の思想は宗教とは言えない」「日本の仏教やマントラは釈迦の思想ではない」という主張も、ある程度は理解します。

 しかし、そうした解釈は、あくまで宗教論の「入口」のようなものだと私は思いました。
神秘主義
 私の携わる真言密教の開祖は空海です。私は最初、空海の呪術的な側面やマントラの多用に違和感を覚えていました。「これは仏教なの?」「釈迦の教えなの?」と激しく問いただしたこともあります。

 ですが、空海の著作にあたっていくうちに、彼は釈迦の思想を実に深く理解していて、それをベースにいろんな修法を組み立てていると感じるようになりました。釈迦に最も肉迫したのは空海ではないか、とさえ私は思っています。呪術的であったりマントラを用いたりするのは、表面的な言語活動を超えた身体感覚で釈迦の思想を「体感」「体現」しようとする試みだといえます。

 そういう試みをおこなってきたのは、空海だけでは、いや仏教だけではありません。この本の物足りなさを補って余りある本を一つだけ紹介しましょう。

*鈴木大拙著(坂東性純・清水守拙訳)『神秘主義 キリスト教と仏教』(岩波書店)

 私は、宗教は信仰の対象というより、「世界を受け入れるための媒介」だと思っています。この世のすべての物事を論理的に説明できる人はいません。なぜ土から植物が生えてきて、なぜ飛行機が空を飛び、なぜ人間の脳がこれだけ発達したのか。そんなことを説明できなくても、私たちは植物を食べ、飛行機に乗り、脳で考えます。確かに科学が発達して、以前よりは様々な現象が論理的に説明できるようになりました。しかし、それはまだまだほんの一部で、世の中には分からないことがたくさんあり、それでも生きていかなければいけないのです。この不確実で不完全な世界を生きていくには、分からないところは分からないなりに、「たぶんこんな感じだろうな」と受け入れていくしかありません。それを東西の人々は「神の仕業」と名付け、釈迦は「縁起」と呼んだのだと思います。

 でも、苫米地さんはそういう神秘主義を理解しようとはしないでしょう。とても知的で、不安のない人なのだと思います。そういう人に宗教は必要ないというだけのことかもしれません。

 「税金は不要」「国家も不要」など、本題とかけ離れた闊達な主張は、それなりに面白く読みました。この本を書きながら、だんだんそっちに興味が移っていったのでしょうかねぇ。そういう本(『日本人よ、目を覚ませ!』マガジン・マガジン)が近日発売予定です。

2011年2月21日 坂田光永




《バックナンバー》

○ 2011年1月21日「小さなタイガーマスクが増えること」
○ 2011年1月1日「平和の灯を高野山へ」
○ 2010年12月21日「台湾ダーランド」
○ 2010年11月21日「千人の垢を流して見えるもの」
○ 2010年10月21日「いのちの多様性」
○ 2010年8月21日「奈良、歴史『再発見』」
○ 2010年7月21日「身延山と日蓮」
○ 2010年6月21日「ボクも坊さん。」
○ 2010年5月21日「仏法は汝らの内にあり」
○ 2010年4月23日「葬式は要らないか」
○ 2010年3月21日「再びオウム事件と仏教について」
○ 2010年2月21日「立松和平さんの祈り」
○ 2010年1月1日「排他的、独善的な仏教にならないために」
○ 2009年12月21日「『JIN』のようにはいかないもので」
○ 2009年11月21日「排他的?独善的!」
○ 2009年10月21日「アフガンに緑の大地を」
○ 2009年9月23日「笑いとため息」
○ 2009年7月21日「臓器移植と『いのち』の定義 続編」
○ 2009年6月21日「臓器移植と『いのち』の定義」
○ 2009年5月21日「『地救』のために何ができるか」
○ 2009年4月21日「アイアム・ブッディズム・プリースト」
○ 2009年3月21日「おくりびとと『死のケガレ』」
○ 2009年1月21日「『伝道師』としてのオバマ」
○ 2009年1月1日「空と海をつなぐ」
○ 2008年10月28日「会津をめぐる」
○ 2008年9月21日「神秘主義」
○ 2008年7月21日「グリーフレス中学生」
○ 2008年5月21日「祈りと行動と」
○ 2008年4月21日「聖火の“燃料”」
○ 2008年2月28日「妖精に出会う」
○ 2008年1月21日「千の風になるとして」
○ 2007年10月21日「阿字の子が阿字の古里…」
○ 2007年8月21日「目覚めよ密教!」
○ 2007年6月21日「昔のお寺がそのままに」
○ 2007年4月21日「空海の夢」
○ 2007年3月21日「無量光明」
○ 2007年2月21日「よみがえる神話」
○ 2007年1月1日「伊太利亜国睡夢譚」
○ 2006年11月21日「仏教的にありえない?」
○ 2006年10月23日「天使と悪魔 〜宗教と科学をめぐる旅〜」
○ 2006年9月21日「9/11から5年」
○ 2006年8月23日「松長有慶・新座主の紹介」
○ 2006年7月21日「靖国神社と仏教の死生観」
○ 2006年6月21日「捨身ヶ嶽で真魚を見た」
○ 2006年5月21日「キリスト教と仏教と「ダ・ヴィンチ・コード」」
○ 2006年4月21日「最澄と空海」
○ 2005年9月23日「お彼岸といえば…」
○ 2005年7月21日「お盆といえば…」
○ 2005年4月21日「ねがはくは花の下にて春死なん…」
○ 2005年3月21日「ライブドアとフジテレビと仏教思想」
○ 2005年1月21日「…車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」
○ 2004年8月21日「…私は、知らないから、そのとおりにまた、知らないと思っている」
○ 2004年7月21日「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」
○ 2004年6月23日「文殊の利剣は諸戯(しょけ)を絶つ」
○ 2004年5月21日「世界に一つだけの花一人一人違う種を持つ…」(SMAP『世界に一つだけの花』)
○ 2004年4月21日「抱いたはずが突き飛ばして…」(ミスターチルドレン『掌』)
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○ 2004年2月21日「…犀(さい)の角のようにただ独り歩め」
○ 2004年1月21日「現代の世に「釈風」を吹かせたい ―心の相談員養成講習会を受講して―」
○ 2003年12月21日「あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように…」
○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
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○ 2003年9月21日「観自在菩薩 深い般若波羅蜜多を行ずるの時 … 」
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