仏 教 と現 代
千年前の聖たちのように
東日本大震災は、甚大な被害をもたらしています。被害の一端を知ったのは3月11日の夕方、奇しくも播磨の円光寺というお寺で「阪神大震災のときに傾いたお堂を建て直したんですよ」と聞いた帰りでした。その後、晩にテレビを見ながら、その被害の大きさを知りました。しかしそれはほんの一部で、日に日にその深刻さが明らかになってきました。
ここで何を書いたらいいのか分からないほど、やまほどいろんなことを考えました。お坊さんとして何ができるか、市民として何ができるか、被災者の友人として何ができるか、個人として何ができるか… それぞれが混然一体となりながら、今も転がり続けている感じです。
お坊さんとしては、私はささやかながら駅前で托鉢をさせていただきました。人によっては、犠牲者追悼法会をしたり、現地に行って遺体安置所でお経をあげたりしているようです。現地ではお寺が避難所になったり、NGOの待機所になったりしています。被災者の疎開先として部屋を提供しているお寺もあります。一段落すれば、高野山足湯隊も避難所をまわるでしょう。いろいろな関わり方があるということを、改めて感じました。
「千年に一度」ともいわれるこの大震災。およそ千年前も、日本は未曾有の災害が続き、凶作となり、疫病がはやりました。やがて戦乱の世が始まります。
そんな時代のキーワードは「浄土信仰」です。
釈尊から龍樹に至る仏教の本流は「覚(さと)り」の宗教です。「覚り」の宗教は、今ここに生きる自分と向き合い、自分を磨き高めていく宗教です。真言密教も「覚り」の宗教です。空海は「この身このままで仏となる」という「即身成仏」の教えを説きました。
一方、浄土信仰は「救い」の宗教です。そこでは、自ら仏となることを目指すのではなく、ひたすら仏にすがります。「これって仏教なの?」と不審がる人もいるでしょう。ある意味で当然のことかもしれません。
でも、私はなぜか、それをとても尊いものだと感じるのです。最も弱い人に寄り添うのが、この浄土信仰だと思うからです。
かつて高野山には、学侶・行人・聖というヒエラルキーがありました。学侶(学者)や行人(修行者)に比べ、聖は「非事理」(=修行も理論もできない)として下に見られていました。しかし、その聖たちこそは、人々の苦しみを真正面から受け止めた仏教者たちでした。彼らは山を降り、死にゆく人々に念仏をあげ、この世に絶望した人々に「あの世の希望」を与えました。十三仏信仰はここから生まれました。教理的な裏付けがほとんどない十三仏信仰は、しかし人々の苦しみと向き合った聖たちの営為の蓄積でもあるのです。
今年、御恩忌を迎える法然や親鸞、あるいは新義真言宗の開祖・覚鑁(かくばん)らは、その聖たちの同一線上にいた仏教者だと思います。
3・11大震災が起きたその日、私たちは播磨の参拝旅行のただ中にいました。浄土寺・阿弥陀三尊像で千年にわたる浄土信仰の深みに触れ、落慶間もない円光寺でこれからの千年を想い、北条鉄道・下里駅で僧庵を営むお坊さんに「聖」の姿を見ました。
私たちにできることは、きっとあります。被災地の人々の痛みと向き合うこと。かつて千年前の聖たちがそうしたように、私たちも一歩、山門を出てみたいと思うのです。
2011年3月21日 坂田光永
《バックナンバー》
○ 2011年2月21日「この不確実で不完全な世界」
○ 2011年1月21日「小さなタイガーマスクが増えること」
○ 2011年1月1日「平和の灯を高野山へ」
○ 2010年12月21日「台湾ダーランド」
○ 2010年11月21日「千人の垢を流して見えるもの」
○ 2010年10月21日「いのちの多様性」
○ 2010年8月21日「奈良、歴史『再発見』」
○ 2010年7月21日「身延山と日蓮」
○ 2010年6月21日「ボクも坊さん。」
○ 2010年5月21日「仏法は汝らの内にあり」
○ 2010年4月23日「葬式は要らないか」
○ 2010年3月21日「再びオウム事件と仏教について」
○ 2010年2月21日「立松和平さんの祈り」
○ 2010年1月1日「排他的、独善的な仏教にならないために」
○ 2009年12月21日「『JIN』のようにはいかないもので」
○ 2009年11月21日「排他的?独善的!」
○ 2009年10月21日「アフガンに緑の大地を」
○ 2009年9月23日「笑いとため息」
○ 2009年7月21日「臓器移植と『いのち』の定義 続編」
○ 2009年6月21日「臓器移植と『いのち』の定義」
○ 2009年5月21日「『地救』のために何ができるか」
○ 2009年4月21日「アイアム・ブッディズム・プリースト」
○ 2009年3月21日「おくりびとと『死のケガレ』」
○ 2009年1月21日「『伝道師』としてのオバマ」
○ 2009年1月1日「空と海をつなぐ」
○ 2008年10月28日「会津をめぐる」
○ 2008年9月21日「神秘主義」
○ 2008年7月21日「グリーフレス中学生」
○ 2008年5月21日「祈りと行動と」
○ 2008年4月21日「聖火の“燃料”」
○ 2008年2月28日「妖精に出会う」
○ 2008年1月21日「千の風になるとして」
○ 2007年10月21日「阿字の子が阿字の古里…」
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○ 2007年3月21日「無量光明」
○ 2007年2月21日「よみがえる神話」
○ 2007年1月1日「伊太利亜国睡夢譚」
○ 2006年11月21日「仏教的にありえない?」
○ 2006年10月23日「天使と悪魔 〜宗教と科学をめぐる旅〜」
○ 2006年9月21日「9/11から5年」
○ 2006年8月23日「松長有慶・新座主の紹介」
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○ 2006年6月21日「捨身ヶ嶽で真魚を見た」
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