仏 教 と現 代

三国伝灯

兼六園(撮影は藤井和子さん=光明院檀徒) 日本と中国、韓国との関係がぎくしゃくしています。竹島や尖閣諸島といった領土問題をきっかけに、歴史や経済、国内事情などが複雑にからみあって、世界中に影響を与える事態になっています。

 こんな情勢を「仏教では…」などと言えば、世間の皆様から袋叩きにあうようなことしか出てこないのが仏教です。たとえば「足るを知る」「執着するな」という教えは「国土を捨てろというのか」と怒られそうですが、仏教とはそういう教えなので仕方ありません。

 私が個人的に感じるのは、1つは、自分が日本人であるという立場を離れてモノを言うのは非常に難しいことだなぁ、ということです。私としては、「足るを知る」「執着するな」という教えを、別に日本人に向けてだけ、あるいは中国人・韓国人に向けてだけではなく、普遍的な教えとして示したいわけです。でも、日本人である私が日本人に向けて発すれば「反日だ!この非国民め」と言われ、中国人・韓国人に向けて発すれば「侵略国のお前が言うな」となるでしょう。「分別することなかれ」という教えもありますが、それを言うとさらに批判を受けそうです。

 もう1つは、相手のことばかり見ずに、もっと自分のことを見て、自分の課題に向き合ったほうがいいのではないか、ということです。日本は中国や韓国に、経済的に負けつつあるという危機感を相当に持っていると感じます。それが、せめて領土問題では中国・韓国に強気にいかなければ、という焦燥感にかられているような気がします。一方の中国や韓国も、国内事情から目をそらすための矛先に日本を利用しているのではないかと勘繰ってしまいます。もちろん、それはその国の事情ですから外部からとやかく言うべきではないのかもしれませんが、とにかく「己を見つめよ」と言いたくなります。相手の一挙手一投足を注視して非難し合うのではなく、「如実知自心」(にょじつちじしん)、ありのままに自らの心を知る、ということに重きを置いたらいいのに、と思ってしまいます。

 そして、結局はお互いにデメリットしかない状況が生まれつつあります。経済的にも、文化的にも支障をきたしています。すべて物事は因・縁・果でつながっている、「縁起」という教えは、このような形で図らずも証明されてしまいました。ほとぼりがさめたころには、多くの人が「縁起を知る者は法を知る、法を知る者は縁起を知る」という釈尊の教えをかみしめることになるでしょう。

 ただ、こういう議論の中で聞き捨てならないのは、日本より中国・韓国(朝鮮半島)を下等な国や民族だとののしる声です。

 戦前、二・二六事件の黒幕とされて処刑された北一輝は、現在では「右翼思想家」のイメージが強いようです。しかし北は、実は孫文を応援し、中国の革命を支援しています。そこで日本軍の中国侵略を目の当たりにします。そして、「日本にも民族の誇りがあるように、中国にも民族の誇りがある。それを踏みにじる侵略はよくない」と思い、帰国して侵略批判を始めるのです。

 翻って「今どきの右翼」の皆さんは、日本だけがすばらしい、他はダメ、という主張が多いようです。それは、いっけん自らを誇っているようでいて、実は他者へのコンプレックスに苦しんでいるだけではないでしょうか。本当に自らを尊重できる人は、他者をも尊重できるものです。

 真言宗の開祖、空海は、中国に行って真言密教の教えを受けました。いわば真言宗にとって中国は大先達の国です。また韓国(朝鮮半島)は、さらに昔に仏教そのものを伝えてくれた恩人です。中国や韓国(朝鮮半島)をののしる声は、真言宗や仏教を下等な教えだとののしる声に他なりません。

 日本仏教は、インドで灯され、中国に受け継がれ、日本に伝えられて輝いた、三国伝灯の教えです。私は、それをすばらしいことだと感じています。

2012年10月21日 坂田光永




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