仏 教 と現 代

我等懺悔す無始よりこのかた

 このたび、高野山真言宗管長・総本山金剛峰寺座主、松長有慶猊下より、光明院の住職辞令をいただきました。まだまだ名前だけで、実態はあまり伴っていないと思いますが、今後ともご指導・ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

 住職の肩書をいただいたので、真言宗中興の祖、覚鑁(かくばん)上人の『密厳院発露懺悔文』(みつごんいんほっろさんげのもん)を、ここに書写し奉ります。

 密厳院発露懺悔文  みつごんいんほっろさんげのもん

我等懺悔す無始よりこのかた
妄想に纏はれて衆罪を造る
身口意業常に顛倒して
誤って無量不善の業を犯す
珍財を慳悋して施を行ぜず
意に任せて放逸にして戒を持せず
屡忿恚を起して忍辱ならず
多く懈怠を生じて精進ならず
心意散乱して坐禅せず
実相に違背して慧を修せず
恒にかくの如くの六度の行を退して
還って流転三途の業を作る
名を比丘に假って伽藍を穢し
形を沙門に比して信施を受く
受くるところの戒品は忘れて持せず
学すべき律儀は廃して好むことなし
諸仏の厭悪したまふところを慚ぢず
菩薩の苦悩するところを畏れず
遊戯笑語して徒らに年を送り
諂誑詐偽して空しく日々を過ぐ
善友に随はずして癡人に親しみ
善根を勤めずして悪行を営む
利養を得んと欲して自徳を讃じ
勝徳の者を見ては嫉妬を懐く
無徳の人を見てはきょう慢を生じ
富饒の所を聞いては希望を起す
貧乏の類を聞いては常に厭離す
故に殺し誤って殺す有情の命
顕はに取り密かに取る他人の財
触れても触れずしても非梵行を犯す
口四意三互に相続し
仏を観念する時は攀縁を発し
経を読誦する時は文句を錯る
もし善根をなせば有相に住し
還って輪廻生死の因と成る
行住坐臥知ると知らざると
犯すところのかくの如くの無量の罪
今三宝に対して皆発露したてまつる
慈悲哀愍して消除せしめたまへ
皆悉く発露し尽く懺悔したてまつる
ないし法界のもろもろの衆生
三業所作のかくの如くの罪
我皆相代って尽く懺悔したてまつる
更にまたその報ひを受けしめざれ

われらさんげすむしよりこのかた
もうぞうにまとわれてしゅざいをつくる
しんくいごうつねにてんどうして
あやまってむりょうふぜんのごうをおかす
ちんざいをけんりんしてせをぎょうぜず
いにまかせてほういつにしてかいをじせず
しばしばふんにをおこしてにんにくならず
おおくけだいをしょうじてしょうじんならず
しんにさんらんしてざぜんせず
じっそうにいはいしてえをしゅせず
つねにかくのごとくろくどのぎょうをたいして
かえってるてんさんずのごうをつくる
なをびくにかってがらんをけがし
かたちをしゃもんにひしてしんせをうく
うくるところのかいほんはわすれてじせず
がくすべきりつぎははいしてこのむことなし
しょぶつのえんのしたまふところをはぢず
ぼさつのくのうするところをおそれず
ゆげしょうごしていたずらにとしをおくり
てんのうそぎしてむなしくひをすぐ
ぜんにゅうにしたがわずしてちにんにしたしみ
ぜんこんをつとめずしてあくぎょうをいとなむ
りようをえんとほっしてじとくをさんじ
しょうとくのものをみてはしっとをいだく
むとくのにんをみてはきょうまんをしょうじ
ふにょうのところをきいてはけもうをおこす
ひんぼくのたぐいをきいてはつねにおんりす
ことさらにころしあやまってころすうじょうのみょう
あらわにとりひそかにとるたにんのざい
ふれてもふれずしてもひぼんぎょうをおかす
くしいさんたがいにそうぞくし
ほとけをかんねんするときははんねんをおこし
きょうをどくじゅするときはもんぐをあやまる
もしぜんごんをなせばうそうにじゅうし
かえってりんねしょうじのいんとなる
ぎょうじゅうざがしるとしらざると
おかすところのかくのごとkのむりょうのつみ
いまさんぽうにたいしてみなほつろしたてまつる
じひあいみんしてしょうじょせしめたまえ
みなことごとくほつろしことごとくさんげしたてまつる
ないしほっかいのもろもろのしゅじょう
さんごうそさのかくのごとくのつみ
われみなあいかわってことごとくさんげしたてまつる
さらにまたそのむくいをうけしめざれ

光明院檀徒・藤井和子さんの撮影による大崎上島のお地蔵様
 私は、戒を授かって僧侶になりました。なのに、実際には全然それを守っていない。戒律を破り仏の道をはずし、遊んだり笑ったり、お金につられたり、お経を間違えたり、うまく読めたら慢心したり、ここに書かれている数々の「非梵行」をほとんど実践してしまっています。当たり前のように破り、守ろうとすらしていません。

 覚鑁上人の身代わりの懺悔をここに載せて、ちょっとは考えているんだという格好を見せるのも、ずるいことです。でも、戒律を受けずに非僧非俗を貫こうとする親鸞聖人のような気構えもありません。特に珍しいことではないので、わざわざ破戒僧と名乗るだけの信念もありません。

 こんな私が、住職になりました。

 そこに何の価値があるのか。どれほどの存在意義があるのか。私にはまだよくわかりません。

 ただ、簡単にわかった気にならないようにしようという「戒め」だけは、少なくとも持ち続けたいと思います。

 私はたくさんの疑問を持ちながら僧侶になりました。僧侶になった後も、その疑問のいくつかは消化(昇華?)しましたが、消えては別の疑問が沸き起こる、その繰り返しです。しかし、疑問を持つことで得られたことも多くあったと思います。せっかくそんなに疑問を持つことができたのだから、その疑問をうやむやにせずにきちんと問い続けることが、私のささやかな価値であり、存在意義ではないかと、思うことにしています。

 そんな私ですが、よければ引き続きお付き合いのほどを、宜しくお願い申し上げます。

2013年1月1日 坂田光永




《バックナンバー》

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○ 2012年8月23日「いじめを止めようとしている君へ」
○ 2012年6月21日「比叡山の静謐」
○ 2012年5月21日「時間を守る」
○ 2012年4月21日「五大に皆響きあり」
○ 2012年3月21日「永劫に残る核のごみ 〜ドイツツアーに参加して〜」
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○ 2011年10月21日「永平寺の懺悔と「もんじゅ」」
○ 2011年9月21日「日東第一形勝300年に学ぶ」
○ 2011年8月28日「脱原発・脱石油を誓う2011年の9.11」
○ 2011年7月28日「フクシマからヒロシマへ、ヒロシマから世界へ」
○ 2011年6月21日「脱原発の、その先へ」
○ 2011年5月21日「原発のうてもえーじゃない」
○ 2011年4月21日「『3分の1は原子力』は本当か?」
○ 2011年3月21日「千年前の聖たちのように」
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○ 2011年1月21日「小さなタイガーマスクが増えること」
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○ 2010年12月21日「台湾ダーランド」
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○ 2010年7月21日「身延山と日蓮」
○ 2010年6月21日「ボクも坊さん。」
○ 2010年5月21日「仏法は汝らの内にあり」
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○ 2010年3月21日「再びオウム事件と仏教について」
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○ 2009年12月21日「『JIN』のようにはいかないもので」
○ 2009年11月21日「排他的?独善的!」
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○ 2009年9月23日「笑いとため息」
○ 2009年7月21日「臓器移植と『いのち』の定義 続編」
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