仏 教 と現 代

道徳を教科にするかどうか、自由に話し合いなさい

 先日の晋山記念祝賀会で、私がこよなく尊敬する東福院住職・金尾英正僧正に、ぜひ記念にとお願いして、一筆したためていただきました。それが左の写真です。何とお読みするか、わかりますか? 私もお聞きするまでわかりませんでした。

 これ、左奥の太い字は「正見」という仏教語、右手前は「これでいいのら」と書いてあるんです。なんと! どうです、面白いでしょ?

 金尾僧正は、私に「正見」という言葉をくださいました。実は私はこの言葉が大好きです。「正しく見る」というのは、別に「こう見るのが正しい見方だ」ということではありません。決して「正解の押しつけ」ではなく、「様々な角度から見る」「総合的に見る」あるいは「ありのままに見る」といった意味の言葉です。そして、それをそのまま「これでいいのら」と受け止めることができたら、とても楽〜になりますよね。

 金尾僧正、本当にありがとうございました。

 ところで、政府の教育再生実行会議が、いじめ対策として「道徳の教科化」を提言していたのを受けて、先ごろ文部科学省の会議「道徳教育の充実に関する懇談会」が、その方向性に沿った報告書を出したそうです。

 道徳が教科になるということは、成績をつけるということです。現状では教科でないため、学校現場での関心が低いとか、形骸化しているとか、そういう不満が会議で出されたといいます。

 私の周りでも「もっと道徳をきちんと教えるべきだ」と主張する人は多くいます。また宗教者の立場から、「学校で宗教を教えなくなったことが教育荒廃の原因だ」と言う人もいます。

 でも、私は「本当にそうなのかな」と疑問に思っています。宗教と道徳を混同している人が(宗教者を含めて)非常に多いですが、両者はまったく別物です。宗教=道徳であれば、人々は道徳によって救われればよく、宗教の存在理由はありません。宗教は、道徳によって救われない人々をこそ包摂するものです。ですから、ときに道徳的でない思想、社会通念上たいへん危険な思想も内在しています。親鸞の「悪人正機」がまさにそうでしょう。であればこそ、社会のセーフティネットとして機能するのです。

 また、「いじめ対策に道徳を」という発想からして、いじめを理解していないというか、いじめに本気で向き合っていないことのあらわれです。むしろ「道徳の教科化」を通じて愛国心や滅私奉公を学ばせたいがために、きっかけを探していたのではないでしょうか。もしそうだとしたら、不道徳の極みと言っていいでしょう。

 私が中学教員をしていた10年ほど前、道徳の授業は担任にとって試行錯誤でした。私自身は副担任だったので道徳の授業をすることはありませんでしたが、学校では校長の強い意欲のもと、道徳担当の教員が置かれ、研究授業が繰り返されました。

 多くの教員が、道徳を「●●は正しい、××は間違っている」という規範意識の植え付けだと考えていましたが、校長のめざす道徳の授業像は、それとは違っていました。教材をもとに生徒に話し合わせ、決して教員は正解を示さない、導かない、というやり方を提唱していたのです。

 これは、後にはやった「サンデル教授の白熱教室」のような授業スタイルでした。サンデル教授の白熱教室は、まさに道徳の授業の見本です。彼の進行によって、平凡なテーマが世紀の難問となり、退屈な教室が対話のアリーナとなります。生徒たちは問いの正解を知ることよりも、対話によって新たな視点を獲得するほうに喜びを得ます。

 サンデル教授の凄さは、その進行能力、ファシリテーション能力にあります。彼はテーマについて自分の意見をほとんど言いません。コミュニタリアン(共同体主義者)としての彼自身の意見は封印し、進行役に徹します。生徒たちは、初めは「先生は何を正解だと考えているのか」を気にしながら発言しますが、次第に「先生は特定の正解を押し付けようとしていない」と感じ、自由に自分の意見を言うようになります。その結果、教室は「正解探しの場」から「自由に意見を言う場」に劇的に変化します。

 自由に意見を出し合うことで、新たな視点を獲得し、様々な角度から物事を見ることができるようになる。サンデル教授の白熱教室は、いわば「正見」のためのトレーニングといってもいいものです。

 これと同じことが、日本の道徳の時間にはたしてできるでしょうか。今でさえ、ほとんどの教員には不可能に思われます。日頃は「スカート丈は膝下が正しい」「ルーズソックスは間違い」などと私的領域に介入し、隅々まで「正解の押しつけ」を行き渡らせておいて、道徳の時間になれば突然「正解はないんだよ、自由に意見を言ってごらん」なんて、ちょっと無理があります。

 現状ですらこれですから、もし道徳を教科化したら、生徒たちは点数欲しさにますます大人の顔色をうかがうようになり、ストレスのはけ口としていじめが激化するかもしれません。そうなったらどうするんでしょうか? 「いじめを跳ね返すぐらい強くなれ」という新たな「道徳」でも教えるんでしょうか?

 せめて「道徳を教科にするかどうか、自由に話し合いなさい」という道徳の授業をやってみてはいかがでしょうか。いま子どもたちに必要なのは、「正解の押しつけ」ではなく、「様々な角度から物事を見る力」すなわち「正見」なのではないでしょうか。

2013年11月21日 坂田光永




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