仏 教 と現 代

役に立たない仏教

 「三角関数よりも金融経済を学ぶべき」。そう発言した国会議員の話題が最近、ネット上で盛り上がりました。発言主のお父上も国会議員(つまり発言主は二世議員)。ちなみに私は十代のころ、お父上の書いた新聞コラムを楽しく読んでいたので、「息子はこんな発言をする人なのか」「というかいつの間に息子が国会に?」と、いろんなビックリをまとめて体験することができました。

 二世氏が言ったのはおおよそこういうこと。

 「三角関数は人類の叡智であり、私達の生活の基盤を支えているもの。しかし特定の職業に就く方々に必要とされる専門知識の範疇ではないか。全国津々浦々の高校生に教える知識としては、三角関数よりも金融経済の基礎の方が優先度が高い」
 「私は貴重な10代の大事な日々をsin、cosに捧げていた。受験の翌日以降、この20年ほどsin、cosは一度も使っていない。あの日々は一体なんだったのか」
 「全国の高校生にがっつりと教え込む必要があるのか。その分野に進む人たちが専門知識として学ぶものではないか」
 「車の安全な運転の仕方を知ることは大事だが、車の構造は知らなくていい」
 「高校教育は教養や基礎的なものに重きを置き過ぎ、生活の役に立つような実学が少し足りないなのではないか」

 この発言には賛否両論が巻き起こり、「金融経済を理解するには三角関数が必要では?」といった批判や、「役に立たないことを勉強するような余裕はない」といった賛同意見が飛び交いました。中には「本当にいらないのは古文・漢文」「古文・漢文より金融経済と言っていれば問題なかった」という声も出て、古文・漢文が思わぬとばっちりを受ける展開に。

 過去には、「女子にサイン・コサイン・タンジェントを教えて何になるのか」と言った鹿児島県知事もいました。この発言はさすがに女性蔑視として問題になりましたが、冒頭の二世氏の発言は男女関係なく「教養より実学を」という趣旨の議論として私は受け止めました。

 確かに私も、中学・高校の頃は「役に立つことを学びたい」という思いが強くあって、「何のために勉強するのか?」という問いを先生たちに繰り返しぶつけていた記憶があります。例えば「歴史」。大昔のことを学んで何の役に立つ? それよりも現在でしょ? といった具合です。「これは何の役に立つのか?」という問い自体は極めて全うだと思いますし、教える側は説得力ある答えを持ち合わせておかなければいけないと思います。そして、学ぶ内容の優先順位は常に検証される必要があるでしょう。

 かたや、近ごろの教育論議って、ちょっと実学志向に寄りすぎちゃいないだろうか、という懸念もあります。「役に立つかどうか」だけを基準にして、果たしてそれで良いのだろうかという疑問です。

 話題の三角関数について言えば、正直なところ私は全く理解できていません。高校のとき、ノートに「まじめな長男サイン」「愉快な次男コサイン」「何を考えているか分からない三男タンジェント」の「サイン三兄弟」というキャラを立ち上げて遊んでいた記憶しかありません。それでも、十代でそんな世界があるということに少し触れたことで、大人になってから、どうやら測量や金融工学で使われているらしいと知ったときは、「サイン三兄弟ありがとう!」という気持ちになりました。幕末の長州藩の志士・大村益次郎が三角関数の原理を使ってアームストロング砲の弾道計算を正確にやってのけた、という話を聞いたときは、「幕末にもサイン三兄弟!」と驚いたものです。

 ま、それはいいとして、「役に立つかどうか」という発想のネックは、「賞味期限が短い」ということだと思います。もし高校の授業が今よりもっと実学志向になったとしたら。金融や経済の知識、ITの技能をもっとたくさん学んだとしたら。それらは、社会に出てすぐは役に立つでしょう。でも時代の変化とともに必要な知識・技能も変わります。AIの発達によっては案外すぐに無駄になるかもしれない。そして新しい知識・技能を習得しようとしたとき、基礎ができていないことに気付くかもしれない。案外それらは足場の弱い「砂上の楼閣」かもしれない。もっと応用力をつけておけばよかった、つまり「教養」を身に着けておけばよかったと後悔するかもしれません。「教養」は、目先の必要性は薄いけれど、人類の長い歴史の中で厳選されてきた内容ではあるので、「薄味だが賞味期限が長い」のです。

 あるいは実学というのは、自分から学ぶ対象に向かっていく「能動的な知恵」だといえます。誰かからわざわざ教えられなくても、必要性が高いので自分から学んでいく機会もあるでしょう。一方で教養は「受動的な知恵」です。こちらから何かをしようというときに役立つというより、向こうからやってくる相手を理解するために必要な学びだという意味です。

 例えば、ある人が「役に立つことだけ学びたい」を突き詰めた結果、「英語なんか役に立たない」という結論に至ることもあるでしょう。英語を全く知らなくても生きてはいけます。でも、ある日突然、自分の兄弟が英語圏の人と結婚するかもしれない。好きになった人が外国語を喋る人かもしれない。もし英語を学んでいれば、ふと「日本語ってこういう特徴があるんだ。日本人の考え方にそこはかとなく影響を与えているかも」と気付くかもしれない。向こうからやってくる「何か」をより正確に、より豊かに受け止められる学びが「教養」なんだと思います。

 しつこいですが、もう一つ例えをいうと、代表的な教養の一つに「歴史」があります。歴史を生業にしている人は少ない。歴史がビジネスにつながることも少ない。だからほとんどの人にとって歴史は「役に立たない」勉強です。でも、世界を理解するうえでこれほど必要な学問はありません。今、世界で何が起こっているのか。それはどんな構造で成り立ち、どんな原理で動いていて、この先どうなるのか。それを推し量る最強のツールは歴史です。自分がやりたいこととは無関係に、向こうからやってくる「世界」を理解するために、「これ何の役に立つの?」という教養も学んでおくべきです。でなければ、この世界は「自分にしか関心がない人」であふれてしまうでしょう(いや実際にそうなっているのかも)。

 ところで冒頭の二世氏の発言に話を戻すと、彼はもしかしたら「役に立つかどうか」=「金が儲かるかどうか」という意味でおっしゃったのかもしれません。なるほど最近じゃ大学にその圧力が強まって、「儲かる学問」のみに予算が付くようになってきています。政府は学術会議を軽視したり、「反知性」「反教養」の傾向が強くなっている気がします。そうやってきっと、短期的には「儲かる学問」になるかもしれませんが、いずれ賞味期限が切れて国ごと衰退するのではないでしょうか。

 教養は役に立たない。教養は儲からない。そうやってどんどん「役に立たないもの」を削っていくとどうなるのか。学んでも役に立たない、勉強しても1円にもならない「仏教」の世界に身を置いていると、この国がどんどん痩せ細っていくように見えて仕方ありません。

 ちなみに、あれほど「役に立たない」と思っていた古文・漢文は、高野山での修業時代、弘法大師の文章を読み解くために必須の素養でした。まさかこんなところで役に立つとは。ま、お坊さんになるのであれば、の話ではありますが。

2022年6月21日 坂田光永





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