仏 教 と現 代

ロシアの戦争と『はだしのゲン』

 日本や欧米が値上げで苦しんでいるのをしり目に、なぜかロシアの経済は順調なのだそうです。経済制裁を受けているはずが、逆にその抜け穴をくぐる貿易が活況を呈しているとか。「経済で困っていないから戦争を続けられるのだ」という声も聞こえてくるようです。

 ロシアがウクライナに侵攻を開始して、2月24日で1年になります。もちろん当初ロシアが描いた電撃的勝利というプランは失敗し、ウクライナの必死の抵抗もあって予想以上に戦争は長期化していますが、これからさらに続いていくとなると、ウクライナを支援する欧米諸国の側にも徐々に支援疲れが見えてくるかもしれません。専門家は「ロシアから実質的な停戦を言い出すことはないだろう」と分析しているので、この戦争は慢性化していくか、あるいはロシアの「侵略したもん勝ち」で終わる危険性もあります。

 そもそもなぜプーチン大統領はウクライナ侵略を決めたのかが、いまだによく分かりません。巷では「NATO脅威説」「ウクライナ政権内のネオナチ排除説」などが唱えられました。しかしこれらはどうにも首をかしげざるを得ません。

 NATOが脅威だとロシアが感じたかどうかは、もちろんロシアの主観なので有り得るとは思います。ただ、この戦争が始まって以降、北欧諸国が相次いでNATO入りを希望した際、ロシアは目立った反対をしていません。純粋にNATOが脅威なのではなく、「ウクライナがNATO(あるいはアメリカ)のほうを見ているのがたまらなく嫌だ」ということではないでしょうか。

 あるいはネオナチ説についても、まずウクライナのゼレンスキー大統領がロシア系ユダヤ人であるという点で無理があります。そしてプーチンは「ワグネル」という民間軍事会社を積極的に活用しています。ワグネルという名前はヒトラーが愛したワーグナーに由来し、創設者はヒトラーに心酔しているといわれています。プーチンがナチス思想を敵視していないことは明白です。「対ナチス」を掲げるのは第二次世界大戦で「独ソ戦」を勝ち抜いたという国民的共通感覚に訴えかけるためでしょう。

 そう考えてくると、おのずと答えは「プーチン(とその取り巻き)の情念」という話に帰結していきます。プーチンが開戦前の2021年7月に発表した論文は「ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性」というタイトルでした。ここでプーチンは「ウクライナはロシアの歴史的領土である」という歴史観を披露し、後のウクライナ侵略を正当化するロジックを展開しています。ロシアの一部であるはずのウクライナが、旧ソ連の失策によって人工的につくり出され、ソ連崩壊後に独立を言い出し、あろうことか西欧諸国にすり寄ろうとするなど、許せん――。そんな理屈です。

 どうにも歪んだ世界観で、それが戦争を引き起こすに至るほどとは、ちょっと考えにくい気もします。ただ、ロシア国内ではここ10年ほど愛国的な教育が盛んにおこなわれており、政府に批判的な報道も厳しく統制されています。ウクライナの最前線で戦う若者が母親に「どこにもネオナチなんていない」と伝えたら、ロシア国内にいる母親が「そんなはずはない」と反応したというエピソードもどこかで耳にしました。ロシア国内は相当な認知バイアスがかかっているようです。

 仏教のいう「正見」「観自在」「大円鏡智」を持ち出すまでもなく、物事は様々な角度から偏りなく見ることが肝要であり、歪んだ色眼鏡によって見えた世界をそのまま信じてしまっては正しい判断や行動はできません。プーチンは、ひょっとして自身がやらせた愛国プロパガンダに自分で洗脳されてしまったのでしょうか。

 かたや日本では、防衛費の増額や敵基地攻撃能力の保有などがぐいぐい進められています。「日本がウクライナになってはいけない」というムードを利用しているようにも見えます。私は逆に「日本がロシアになってはいけない」という危機感が強いです。「日本はスゴイ」「日本は世界から尊敬されている」「日本人は愛されている」という認知バイアスが強まる一方、過去に日本がどんなことをおこなったのかを振り返る手立てはどんどん減っている気がするからです。

 おりしも広島市教育委員会は『はだしのゲン』を平和教材から外すと決めました。理由は「浪曲で日銭を稼ぐ」「池の鯉を盗む」の背景説明に時間がかかるからだとか。その削除理由の説明ほうが私には理解しがたいです。本当にそういう理由なんですかね。

 『はだしのゲン』はこれまでも、「描写が過激」という理由で学校図書館の倉庫にしまって閲覧を制限するという動きがありました。作者の中沢啓治さんは「原爆の残酷な場面を見て、『怖いっ』『気持ちが悪いっ』『二度と見たくないっ』と言って泣く子が日本中に増えてくれたら本当によいことだと私は願っている」と語っています。「描写が過激」なのには理由があります。それは現実が「過激」だったからに他なりません。

 世界24か国で翻訳されている『はだしのゲン』。実は、初めて全巻が翻訳されたのはロシア語版でした。金沢在住の翻訳家、浅妻南海江さんが、1994年から7年かけて翻訳したそうです。ロシアの人たちから「主人公たちの苦しみを絵で感じながら読んだ」「原子爆弾の恐ろしさがより理解できるようになった」と感想が届いたとのこと。ですが、そのロシアが昨年ウクライナに侵攻し、核兵器の使用すらちらつかせる事態になってしまいました。浅妻さんは「草の根運動でゲンを広めていっても、国際政治の前には無力」と落胆していますが、私はロシア国内にゲンが浸透しないうちにこの戦争が始まってしまったのだろうと思います。

 平和教材からの『はだしのゲン』の削除については、おそらく、ゲンがもたらす圧倒的な反戦メッセージを為政者が嫌悪したからというのが真相でしょう。この漫画には原爆被害だけでなく、日本の戦争加害の様子も遠慮なく描かれていますからね。「日本がロシアのようになるのではないか」という私の恐れは、また一歩現実に近づいた印象です。

2023年2月21日 坂田光永





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○ 2009年6月21日「臓器移植と『いのち』の定義」
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○ 2007年8月21日「目覚めよ密教!」
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○ 2006年9月21日「9/11から5年」
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○ 2006年4月21日「最澄と空海」
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○ 2005年7月21日「お盆といえば…」
○ 2005年4月21日「ねがはくは花の下にて春死なん…」
○ 2005年3月21日「ライブドアとフジテレビと仏教思想」
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