仏 教 と現 代

松長有慶先生へ最後のレポート

 松長有慶先生の著書には「生と死」をテーマにした章が必ずといっていいほど立てられています。そこには釈尊の無常の教え、弘法大師が亡くなった弟子に向けて書いた文章、密教的な生命観や死生観などが、科学的な知見も交えて縦横無尽に解説されます。

 『生命の探求 密教のライフサイエンス』という著書では、「空海にあって死とは、大宇宙の生命力と合体し、大自然の中に帰っていくことであった」と述べられています。おそらく松長先生ご自身も、この弘法大師の死生観を受け継ぎ共有していらっしゃったことでしょう。

 高野山金剛峯寺第412世座主の松長有慶前官(ぜんがん)が4月16日、遷化(せんげ)されました。松長先生は高野山大学の教授として多くの真言僧を育てた教育者であり、真言密教が市民権を得るうえで最も大きな影響を及ぼした密教学者でした。「空海」「密教」「曼荼羅」という言葉が具体的なイメージをもって人々に理解されているのは、先生の力によるところが非常に大きいといえます。

 さらに私にとっては、修行僧として1年間過ごした「高野山専修学院」(寳壽院)の門主であり、僧侶としての資格を与えてくださった伝法灌頂の阿闍梨でした。高野山大学に行かなかった私にとって、松長先生の「密教概論」は真言密教との出会いそのもの。それはとても面白い授業でした。私に真言僧としての扉を開いてくださったのは、そして迷いや苦悩を抱えながらも1年間の修行を無事に終えることができたのは、間違いなく先生のおかげです。

 専修学院での生活が始まって間もないころ、門主であった先生が「院生の話を聞こう」と言い出しました。不満や疑問がある者は門主室に行ってじかに先生とお話しできるというのです。ところが院生はみな遠慮したのか、厳しい印象のせいで怖がったのか、門主室の扉をたたいたのは私一人だけでした。先生は私を門主室に温かく迎え入れてくださり、「こんな規則でがんじがらめの生活がどうして悟りにつながるのか?」「現代のお坊さんの在り方は本当にこれでいいのか?」などという私の青臭い言葉に耳を傾けてくださいました。この問いに先生が何と答えてくださったのか、緊張もあってか実はあまり覚えていません。なんてもったいない。でもその時に感じたのは、どこか先生も私と同じような問題意識をお持ちなのではないか、という感覚でした。

 もちろんこれは手前勝手な私の妄想かもしれませんが、それでも先生が授業や講演で語られたことの多くは、日ごろ私がモヤモヤと抱えていた疑問への回答になるものでした。先生の講義は単なる密教用語や弘法大師の文献の解説ではなく、それが現代社会にとって、現代に生きる私たちにとってどんな意味を持つのかということでした。例えば環境問題や生命倫理など、自然科学の論理だけでは向き合いきれない課題に対し、真言密教の視点で光を当てていきました。

 こういった姿勢は、内にこもりがちな真言宗業界の人たちからは時に疎まれ、批判の対象になることもあったようです。真言行者は祈っていればいいという空気は今もありますが、先生が活躍され始めた当初はもっと強かっただろうと思います。先生が闘っていた相手はきっと、密教を非科学的でオカルトな迷信だと信じ込んでいる世間であるとともに、そんな世間と向き合おうとしない真言宗業界でもあったのではないでしょうか。

 先生の葬儀に際し、高野山に登ることがかなわなかった私は、専修学院第60期卒業生を代表して弔電を送らせていただきました。普通の定型文で送ることも考えましたが、せっかく私に書かせてもらえるのだし、ということで、松長先生らしい言葉を盛り込みたいと思いました。まるで先生に最後のレポートを提出したような心持ちです。恥ずかしくて全文はご紹介できないので、最後の一文のみでご容赦ください。

 「曼荼羅諸尊のお導きのもと、宇宙生命のふるさとへと還源せられるようお祈り申し上げます」。

 松長有慶先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。

2023年4月21日 坂田光永





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○ 2009年12月21日「『JIN』のようにはいかないもので」
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○ 2009年9月23日「笑いとため息」
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○ 2009年6月21日「臓器移植と『いのち』の定義」
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○ 2007年8月21日「目覚めよ密教!」
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○ 2006年11月21日「仏教的にありえない?」
○ 2006年10月23日「天使と悪魔 ~宗教と科学をめぐる旅~」
○ 2006年9月21日「9/11から5年」
○ 2006年8月23日「松長有慶・新座主の紹介」
○ 2006年7月21日「靖国神社と仏教の死生観」
○ 2006年6月21日「捨身ヶ嶽で真魚を見た」
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○ 2006年4月21日「最澄と空海」
○ 2005年9月23日「お彼岸といえば…」
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○ 2005年4月21日「ねがはくは花の下にて春死なん…」
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○ 2003年11月21日「…蒼生の福を増せ」
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